中国セミナー体験談

『1年間の中国留学を控えて』

 

01E2040 近藤 修

 

時は200327日、僕は中国天津空港にやってきた。空から見た中国はとにかく畑畑畑、畑ばっかりだった。ものすごく広い。天津空港はその中にポツンと存在していた。飛行機を降り、記念すべき中国への初一歩…なんか煙い、そして臭い。うわさには聞いていたがほんとに煙い。そして入国手続きへ、そこで空港職員から発せられたのは聞いたことも無いような謎の言葉だった。「&%##“;@¥…!!。」怒涛の1ヶ月間戦争の幕は切って落とされた。

空港から南開大学までのバスの中とりあえず目に入ってくるのはやはり一面の広大な土地。そして、南開大学に近つくにつれて増えてきたのが自転車である。とにかく自転車が多い。日本とは比べ物にならない。そして自転車に乗っている人のマナー悪すぎ。信号は在って無いような物と化している。赤なのに平気な顔で渡っている。クラクション鳴らされても動じない。すごい国である。

やっと大学到着。とりあえず、1ヶ月寝泊まりする部屋に荷物を置く。ここでまた一波瀾。水道の蛇口をひねると、出てきた水は黄色っぽい。匂いも少し。外国の生水は危険という事を改めて実感した瞬間である。とりあえず僕たち男5人は売店に水を買いに行く事にした。ところが、たかが水を買うのに一苦労。辞書を片手に身振り手振り、やっとの事で水を購入できた。これから先が思いやられる。日本は恵まれているんだなぁと思いながら中国での長い長い1日は終わった。

それからの2日間はしばし休憩。そして、いよいよ授業が始まった。今回のセミナーは人数が少ないため、クラス分けがない。置いていかれないようにしなければ。中国の朝は早い。8時から授業の開始である。書き取りの問題など、日が経つにつれて難しくなってきた。宿題なども出てまさに四苦八苦である。授業中、曹先生が近くに来るだけで心臓がドキドキしてくる。とにかく授業のある午前中はおどおどしっぱなしである。そんなこんなであっという間に一週間は過ぎていった。一週間の授業が終わった金曜日の午後ボーリングをしに出かけた。中国のボーリング上はなぜかスーパーの最上階にあった。事件が起こったのはその帰りである。たまたま目撃してしまったその光景は凄まじかった。公安が女の人ともめていたのだ。サングラスに黒の制服、見るからにイカツイ中国の公安。しかも、けっこう暴力的。女の人の首をつかんで強引に車に乗せていた。あぁ恐い。

土日はオフ。朝からグータラ、グータラ、グーグーZzz…。ちょっとホームシックになりながらもまた、一週間が始まる。

2週目に入っても、相変わらず授業では四苦八苦。単語テストや予習復習に追われる毎日である。そんな日々の中、いつものようにご飯をみんなで食べに出かけた。中国料理は辛い物が多いが、どれもおいしい。そして何よりも安い。しかし、その日に食べた鍋料理これが凄かった。汁が赤い。とにかく赤い。食べると体中の毛穴から汗が噴き出る。次の日、僕たちの胃の中でレッドホットチリペッパーズたちがファンキーに暴れたのは言うまでもない。この頃になるとみんなでタクシーに乗って出かける事が増えた。でも、助手席に乗ると緊張する。ちゃんと行き先は通じたかとか、話し掛けられて答えるのでイッパイイッパイである。それにしても中国の交通マナーは悪い。でも事故が無い。不思議だ。

週末はみんなで北京旅行。京劇を見たり、雪の万里の長城で転んでみたり、天安門で毛沢東に挨拶したり、特に万里の長城はさすが宇宙から見えるだけあって、とても大きく印象に残っている。あんなものをつくれるなんて人間やればできるもんだなぁと実感した。その他にも故宮や、天壇公園などさまざまな所へ行く事が出来た。

3週目、この辺になってくるとさすがに生活にも慣れてきて一人でも出かける事が多くなってきた。バスに乗ることも覚え、行動範囲も広がった。来たバスに乗り、気になったところで運転手に一言、「下車!!」得意げな顔でバスを降りていく。また、2階建てバスが来たときには2階の一番前に恥ずかしげもなく座ったものだ。授業のほうはというと、8時開始なのに8時に起きる。飛び起きて、服をはおり、素足で靴を履き、急いでドアを閉め、廊下をもうダッシュ。で、教室入ったら、せっかく勉強したのに単語テスト終了…。だめだめ君です。授業中も、ものすごく縮こまって細々と生き抜いております。しかし、ひとたび授業が終われば、がぜん元気が出てくるもんです。週末は、今度は同部屋の友達と再び北京へ。今度は、先週行けなかった買い物をメインに、北京ではお互い自由行動をする事にした。途中お茶屋に捕まっていろいろなお茶を飲まされたが結構おいしかった。その他にも地下鉄に乗ったりバスに乗ったり見知らぬ土地のプチ一人旅はなかなかおもしろかった。

4週目、だんだん残り日数も少なくなってきてやっと現地の人の言っている事がなんとなく解るようになってきた。買い物程度なら普通に出来るようになった。水も買えなかった頃に比べたらずいぶん耳が中国語に慣れてきた。でも、いざ会話となると文に出来る能力がなく、ブチッと会話が途切れてしまうことが多い。中国語は難しい。4週目にもなってくると、毎日のように飲んでいた酒の瓶のディスプレイがますます増えてくる。ついに、棚に飾るところがなくなった。それにしての中国のお酒はものすごくアルコールド数が高い。勉強のほうも辞書を調べるのも慣れたものである。売店のおばちゃんにも積極的に話せるようになってきた。

ついに最後の週、お腹の調子がすこぶる悪い。何を食べてもお腹が痛い。特に最後のテスト前日は悶絶ものだった。みんなが勉強しているなか、ひとりベットの上をのた打ち回っていた。もう中華料理は嫌になった。特に人参の入ったものは見たくもなかった。確実に人参による被害だった。

慣れてきた頃に終わりは来るもので、長いようで短かった短期セミナーも帰国の時がやってきた。最初は謎の言葉だったのが、やっとあれは中国語だったんだと理解できるようになった。道路を横切る時、現地人と同じようにアグレッシブに渡れるようになった。来る時は22キロだった荷物が、いつのまにか25.5キロになっていた。また、24枚だったCDが気付けば倍近くになっていた。そんな314日、僕の怒涛の1ヶ月戦争は終戦を迎えた。

20049月僕の戦争は再び開戦する。今度は一年と長期戦である。